福山城は江戸時代の初め、一六二二年に完成したお城です。
江戸幕府の期待を受け、徳川家康の従兄弟である水野勝成が赴任してきて築きました。寄せられた期待は、始まったばかりの平和を維持することです。
徳川の天下が安泰となるまで、日本では約一五○年もの間、戦国大名たちの戦争が相次ぐ時代が続いていました。天下統一あと一歩のところで家臣の謀反に遭ったり、天下統一を成し遂げても没後に家臣内で覇権争いが起こるなど、誰かが勝ってようやく平和になったと思っても、次の反乱が起こる世の中だったのです。
江戸幕府はそのような先例を受け、同じ轍を踏むことがないよう、有力な大名が反乱を起こせない環境を整えます。その一つとして、鬼日向の異名を持つ勇猛な武将・水野勝成を、瀬戸内の真ん中に置き、西日本の有力な大名が反乱を起こさないよう牽制したのです。
一六一七年に大阪夏の陣が終わり、元号が変わり、元和偃武(げんなえんぶ)の世となりました。元和は「平和元年」、偃武は「武器をふせて武器庫に収める(軍縮)」という意味です。福山城はそんな世の中に、二度と戦いを起こさせないために作られたお城で、平和を願った江戸幕府の想いの一つの表れだったのです。
福山城は、江戸時代建築最後の最も完成した名城として称えられていました。一九三一年に天守が姫路城・松本城の天守と同時に国宝に指定された程です。一九四五年の福山大空襲で焼失してしまい、当時のお城は現存していませんが、一九六六年に再建されました。かつての三之丸のあとには現在JR福山駅が建っており、新幹線のホームから福山城を間近に眺められ、在りし日の姿を偲ぶことができます。
福山城に現存する伏見櫓(国の重要文化財)は、時の将軍・徳川秀忠が、福山城築城の際に京都伏見城から福山城に移築させたものです。このことからも、江戸幕府から水野勝成への並々ならぬ期待の程がうかがえます。
その昔、福山城の地はコウモリが多く生息しており、「蝙蝠山」と呼ばれていました。「蝙蝠」は福に通じるとされることから、水野勝成がこの地を「福山」と名付けたともいわれています。
「渋み」という言葉には、「落ち着いた趣」「地味で深い味わい」という意味があります。この言葉は決して派手ではありませんが、侘び寂びのように日本の美意識を表しており、悠久の歴史を持つ福山城を連想させます。福山城をテーマにしたお菓子を作るにあたり、全体を貫く統一的なイメージにこの言葉を据えました。
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